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長月 nagatsuki


2020.04.17
【オゼキカナコのnote】「誰かのために」やることなんてできない

こんにちは!

 

カナコ氏の文章が大好きなコージです。

 

 

今日はカナコ氏が書いてる「note」の過去記事で、好きが多かったものを転載しました。

 

2020年3月20日の記事です。

 

お時間あれば、ぜひ読んでみてくださいね。

 

 

 

 

 

 

 

 

1年に1〜2回くらい。

 

めっちゃくちゃ、思いっきり、やる気がなくなる時がある。

 

 

 

その時は、もう、なんだってどうだってええわ。

 

その辺の草食べて土掘って生きてくからほっといてくれや!

 

って気分になったけど、1日たったら元気になった。

 

まあ、私の気分なんてそんな程度のものだ。

 

 

 

ちなみに私は、基本的に浮き沈みが少なく、多少のことでやる気が出たり出なかったりするタイプではない。

 

 

誰かの発言で心揺らいだり、失敗して落ち込んだりしても、すぐ浮上するので行動に影響があまりでない。

 

自分自身、平常心でいることが好きだし、感情に行動が影響されるのはクールではないと自分自身を律しているふしもある。

 

正直に書くと、「動じないオレかっけー」と思っている厨二だ。

 

 

 

そんな私が思い切りやる気がなくなる時は、パターンがある。

 

最近わかってきた。

 

“良かれと思って”誰かのために頑張ろうとしたり、漠然と”人のためになる”と思って努力したりすることが、結果的に自分のためにならなかった時、やるだけやって結果が伴わなかった時、とても悔しい気持ちになる。

 

 

 

やり始める時は気づいていないのだ、その行為に対して「誰かのためにやっている」とは。

 

 

 

ただ、気になってやってしまう。

 

ただ、相談されたら答えようとしてしまう。

 

ほっとけばいいのに、勝手に気にして勝手に手伝ってしまう。

 

それをすることで、一瞬自分の気持ちは落ち着くのだけど、結果的に満足が得られないこともあり、そうなると「あれ、なんで私やってるんだろう、やりたくもないのに」みたいな我に返ったように不満だけが残る。

 

さらに相手も、もしかしたら「余計なおせっかい」とか「邪魔」とか「めんどくさい」とか思っているかもしれない。

 

 

 

「良かれと思って」「あなたのため」と思ってやることは、自分には向いていないと感じる。

 

結局のところ「相手ではなく自分自身が主体であるか」で納得度が変わるから。

 

 

 

不意に誰かの何かを手伝うとき、これはちゃんと「自分が手伝いたいと思ったのか」「自分がやりたいと思ったのか」「結果まで責任をもってやれるか」をちゃんと考えないといけないと感じる。

 

逆に言えば、「私がちゃんとやりたい」「私が最後まで責任を持つ」という「自分主体」のことであれば、何をやっても納得感がある。

 

 

 

これは自分の性格なのか、誰でも普遍的なことなのかわからないけれど、「自分主体」で考えることを忘れないようにしたい。

 

「〇〇の仕事手伝って欲しいのだけど」

 

「今度こんなイベントやるから相談したい」

 

「こんなプロジェクト興味ありますか?」

 

ありがたいことにちょこちょこいろんな話を投げていただけるのだけど、きちんと自分の頭で考えて、やるかやらないかを決めよう

 

 

自戒を込めて。

 

 

 

カテゴリー:note(オゼキカナコ)